がんばりたくない日々

楽しいことと考えることと趣味と

「花束みたいな恋をした」

小説や映画はつまるところ、共感が大事になってくると思うんです。

どれだけ感情移入できるかがキモで、逆に「感情移入できなくて面白くなかった、寝てしまった」みたいな言説は感想文の常套句です。

 

花束みたいな恋をした この作品はある種のリトマス試験紙と言いますか、とても精巧に作られた限りなくフラットな「現代の若者像」が、観る人の感性を映し出すような気がします。感情移入出来る出来ないだけでなく、納得できる、理解できるといったレベルまで様々な意見が出るのかなと。

私個人は共感できて、でも嫌悪感も抱いて、だからこそこの作品も自分のことも嫌になる、そんな作品でした。

 

サブカル趣味のうだつの上がらない若者が、好きな物が合うと言うだけで一緒になり、「恋愛」をし、フリーターとして趣味で稼いで生きていこうとする。でもどうにもならず就職し、時が経ち、別れる。こう概観しただけでももう大分碌でもないんです。でも、私は二人を否定できない。私も同じ感情を抱くし、似たようなことをしてきたし、それを未だに思い出として持っているから。

 

出てくる作品名がまず最悪なんですよね。

天竺鼠のチケットをとったけど簡単に観ないことを選択できてしまう、というのが既にだと思うんですよ。そのチョイス、その熱意、その自負、自尊心。

今村夏子、宝石の国、きのこ帝国、ガスタンクetc...最悪のチョイスですよね。そりゃまぁ好きですけど。好きですけど。でもこう羅列されて、それを外から見るとなんともいいがたい感情を抱きます。有り体に言ってしまえば痛々しいというか。ただ、私も好き。でも、そこまでの熱意はない。正直好きって言いたいだけの節もある。そこが最悪。本当に。

 

そして「フリーターになる」「好きな事で食っていく」「現状維持」

これも地獄のキラーフレーズです。確かに望んでしまう。私だってこうありたい。でもそんな人間は少なくとも格好良くないとは思うし、どうせ何も出来ない。

 

他にも色々ありますが、総じて言えるのは共感できてしまうけど、そういう人間は好きじゃないと言うこと。

 

そしてこんな人間達が繰り広げる「恋愛」がまた観ていて心をざわつかせます。

近い趣味、嗜好で答え合わせのような中身のない会話を続け、「恋愛」だけを燃料に「ごっこ」が行われ続ける。多くの人が経てきた恋愛を、くだらない二人がほぼ空回りのまま惰性で行う。輝くようなシーンだってありますが、果たして本当に光っているのか。ただ彼らが無意識のうちに憧れていた輝きを模倣しているだけなのか。

自分の話ですが、恋愛をしている時の感情って狂ってるんですよね。なんでも出来る気がして、なんでも幸せで。でもそれって結構独りよがりだったり、どこかで観たものの模倣、ごっこ遊びをして楽しんでるだけだったりするんですよね。

この作品を観てしまうと自分たちの事に関してジワジワとボディブローが効いてきます。

 

映画を観る中で自分が嫌いだと思っていた人々と自分は同じだったことに気付かされ、自分の嫌なところを客観視させられ、美しくも苦しい思い出を想起させられ、ずたぼろにされるんです。これを嫌な映画と言わずして何という。

 

でも、少し元気づけられた気がしたのも確かです。不思議なもので。

強くぶん殴られたからこそ,軸を実感できた、そんな感じでしょうか。