がんばりたくない日々

楽しいことと考えることと趣味と

人間の鳴き声

最近全然「質問」やってない気がする。

 

 

言葉って何なんだろうってなんとなく思った話。

 

言葉の持つ意味ってのは「共有」だと思ったんですよ。それ以上でもそれ以下でもなくて。

人と会話してその時の感情や情報を共有する、紙に残して読んだ人に時間を超えて共有する、過去の自分と今の自分でも頭の中で言葉を思い出して記憶を共有する、みたいな。

そう考えると人間の発する言葉だってただの人間の鳴き声でしかなくて。言葉のいらない高次生命体の前で会話なんてしたら馬鹿にされそう。「まだ鳴き声にたよってるよ!」って。

 

人間は必死に「言葉」を本、CD、DVD、etcっていう媒体で共有出来るようにしてるけど「言葉」自体がそもそも情報共有媒体なのだから「言葉」のレベルで議論出来るような「言葉」以外の情報共有媒体ってないのかななんてざっくり思った。でももう既にあるのか。音と映像がそうだもんね。インストの歌だって感情を共有出来るし映像なんてそのまんま視覚情報を共有出来るよね。

この辺のものってどこまで後天性のものなんだろうか。もちろん映像だったらある程度公平性(?)が保たれるけど音楽を聴いて悲しくなるとかって過去に聞いた「悲しい歌」が元にあってからそう感じるようになるのか、はたまた音楽を聴いたことない人でも悲しいメロディーは悲しい感情を誘発するのか。面白そう。誰か研究してるだろうし結果も出てそうだけど調べないし書かないからこのブログ見つけて読んだ人は気になったら調べてみて。

もちろん、というかむしろこっちの方が顕著だけど、言葉もばりばり後天性だよね。「赤い薔薇」って聞いても頭に思い浮かべるのは「その人の思う赤色」の「その人の思うバラの形の物体」っていう、後天的に与えられた情報を寄せ集めて作った粗悪な模造品だから現実とはだいぶ違ったりするって言う。だからこそ言葉に当てはめるのはどうなのかって意見もどっかで聞いた気がする。思い出も頭の中で「コレコレこういうことがあってこういう映像でこういう感情だった」って形で思い出してる時点で代替物で作られた情報の集合体でしかないもの。「あれが悲しかった」って言ったって「悲しい」っていう感情に押し込めちゃって悲しいだけじゃないはずなのに悲しい以外の感情は記憶としては薄れちゃうものね。なんだかなぁ。もっと言葉に頼らない感情を大事にしていきたい。その時のその場でしか感じられない感情を。

 

盲目の人に「赤い薔薇」を伝えても映像は伝わらない、って事は理解出来るけどじゃあ盲目の人の想像ってどういう想像なんだろうって思った。「映像」を知らない人は頭の中で映像は生み出せないよね。知らないものを想像する時は似たものから類推させていけばいいけど似たもののデータベースがないんだものね。盲目の人って三角形とか分かるのかしら?直線とか?触ったものをイメージとして頭に生み出せるの?じゃあ夢って?音だけだったりするのかな?「夢を聞く」のかな?これも答えはでてそうだけどね。今度調べて見よ。

むしろ盲目の人の方が発想力はありそう、というか常人とは全く異なる種類の発想能力を持ってそう。これはもう視覚情報を知ってしまった我々では想像出来ない世界なんだろうなぁ。

 

情報をたくさん知っちゃった方が「あ、〇〇みたい」って感じで想像力は凝り固まると思う。やっぱ頭空っぽの方が夢詰め込めるんだよ。

 

砂糖は甘いけど甘くなくて、甘いというジャンルの「砂糖の味」でしかない、という考え方の出来る人間になりたい。

 

こうやって私の考えてることも世界中の人と共有するわけだし、未来の自分とも共有するわけなんだね。

 

「自我」の話もしたかったけど何か今日だいぶ長くなったしまたいつか。